デジタル化社会の光と陰
①
1950年代を境に、人類の生活様式と生産・消費行動の変化はそれまでとは大きく様相を異にしている。新しい生活様式とそれを可能にした営利追及の企業活動の痕跡が世界の隅々にまで及び、全地球規模でその地質の表面を覆い始めた、新たな地質年代紀「人新世」になろうとしている。その一方で、人々の社会を根本的に不可逆的に変化させる波が、恐ろしい速さで押し寄せている。それは人類が発明したデジタル化の波であり、もう誰にも止められない。
②
欲しいものはボタンを押せば素早く、面倒なプロセスは省略して、翌日に宅配便で届けられる。知識は無料で誰にでもいつでも入手可能で、どんな質問にでも博学のAIが回答してくれる。既存の専門家の活躍する場所は、どんどん小さくなるばかりだ。教育はデジタル化され、優秀な講師が一人いれば足り、教師はIT危機を操作管理するデジタル技術者になってしまうのだろうか。生活の圧倒的時間をデジタルに奪われ、起きている時間の大半を膨大なデジタル情報に翻弄されながらも、手放せない。銀行に行く人はどんどん少なくなる。すべての支払はカード決済、スマホのキャッシュレス決済派が急速に増加している。労働の結果得た給料もその実感はますます乏しくなり、デジタル口座の残高は他人事のように勝手に減少していく。交友関係もデジタルのSNSのやりとりで事足り、現実感のない上辺だけの希薄な付き合いに終始する。
③
社会の出来事は事前に取捨選択された、真偽の確認できないニュースが大量にスマホから入ってくる。事実関係の確認にリソースと時間を割き、信頼される記事を送るべくチェックされる新聞は一部の人の贅沢な読み物となった。自分の思考の中身もデジタル情報によって占められ、その真偽は確かめようがなく、流されれていく。一瞬立ち止まり、論理的に考え、疑い、吟味し、類推し、その根拠を確かめるるという思考は失われ、心の余裕もなくし、刹那的に様々な判断と選択を迫られる。
④
すべて誰かが考えたお仕着せの思考にはまりがちで、自分で立ち止まり考える時間、古典を読む時間、一人で振り返る時間、将来を考え、繰り返し吟味し、人生を設計する時間が全く足りない。ものに囲まれ、時間に縛られ、忙しく立ち回り、ひたすら効率とコストパフォーマンスを求め、「今だけ、金だけ、自分だけ」を求め、得られない心の豊かさと人生の充足感と引き換えに、その代償を物質的豊かさに求め、ひた走る人生を送るのが、最終目的となってしまったかのようだ。
⑤
自分の未来を人に委ねず、自ら考え選択するために、静かに考えられる環境と時間を用意し、事実と自分の価値観に従い判断し、自らの考えで取捨選択をできるよう、事実をありのまま受けとめられるよう、自分の頭と体と心によるコントロールを手放すことなく、自ら熟慮し行動するための、生活と環境を整備するための時間と努力が誰にも求められている。
⑥
堤美果氏による「デジタル・ファシズム」は、デジタル化に加速度的に傾斜していく現代社会で、様々な事を考えさせてくれる。経済界と行政は「こんなにも便利になりますよ、時代に乗り遅れますよ、世界の大企業との熾烈な競争に負け、労働の効率性・生産性が低く給料は上がりませんよ」と声高に宣伝するが、その代償として失うもの、奪われるものことには一切触れようとしない。ごく少数の世界的な大企業による情報の独占的な利用に道を開き、莫大な利益を積み上げる企業群と、一方で社会のデジタル化によって、個人は一層社社会規範を忠実に守り、自己抑制的な行動をとることを求められる社会となるだろう。効率性・利便性という光よりも、失われる陰の部分の方がはるかに大きくなるというのが、率直な実感だ。