加速する変化
1. 変化の速さに立ち止まる暇もない
アメリカの世界的なジャーナリストで、ピュリッツァー賞を3度受賞した、トーマス・フリードマンは、近年の著書「遅刻してくれてありがとう」で、私たちが歴史の根本的な転換点に立ち会っていることを気付かせてくれる。著者は今立ち止まって、もっと深く考える必要があると決意し、この著作を3年間かけて世に出した。3年ほど前に刊行されこの著作は、全米でベストセラーとなった。この途方もないスピードで変化する世界の現状を理解するうえで、多くの示唆に富んだ鋭い考察が詰まっている。
テクノロジー発展が驚異的なスピードで世界の人々に及ぼす影響、ムーアの法則に代表される、その変化のスピードと広範囲な影響を超新星爆発(スーパーノバ)に例え、AIが人類の知能を凌駕する特異点(シンギュラリティ)が来るとし、気候変動・地球温暖化の深刻な影響が、移民・難民問題を引き起こす遠因となっていることを歴史的に明らかにし、人口増加、食料不足、宗教・民族対立、脱炭素エネルギー問題が世界規模で広がり、格差の拡大と貧困の固定化、中東をはじめとする地政学的にも非常に困難な様相を呈する世界の政治経済社会の現状を、実際に現地のベイルート特派員として、ニューヨーク・タイムズのエルサレム支局長として、自ら体験して書き記した考察には、多くの人の心を動かす説得力がある。
科学技術の発展が及ぼす人々への変化を「スーパノバ」(超新星爆発)と形容し、そのスピードは世界の人々を巻き込んで益々加速しているが、ごく一部の人を除き、誰もついていけないというのが現状ではあるまいか。世界的な規模で企業活動を行うグローバル企業では、その企業集団と所属する個人に対し、その変化の流れに必死で追いつき、変化に対応することを求め続けるが、個人の生活者レベルでは非常に困難が伴う。企業で働く人々は立ち止まることも許されない。
2. 世界に発信する駐車場係
その考察の一つのきっかけを与えてくれた、いつも利用する駐車場係の男性は、夜はその専門的なエチオピアの民主主義と社会についての知識と見解を世界に発信しているコラムニストであり、駐車場係の本当の仕事は夜、そのブログを書くことだという。IT技術発展によって、個人が世界に向けて発信し、世界に影響を及ぼすことが容易にできる時代となったことを、偶然知り合ったごく身近な人の例を挙げ、実感をもって記している。
著書のこの題名「遅刻してくれてありがとう」は、ランチミーティングの予定時刻に遅刻して、著者に立ち止まるひと時の考える時間をくれた、訪問者に対するお礼の言葉である。表題からは内容が窺い知れないのが難点である。
すべての物事に当事者として主体的に取り組むことがいかに重要かという文脈で、「世界史上、レンタカーを洗車した人間はひとりもいなかった」という言葉は、著者のお気に入りで、また比喩に富み、端的に事の本質を表現し、面白い。
3. 変化への対応
個人レベルでは、到底太刀打ちできない変化への対応欲求が突きつけられる。寝る間もなく、雑多な情報に振り回され時間を奪われ、家庭生活を奪われ、さらに産業界挙げてのDX推進策と相俟って、新たな情報・IT産業の要求するITスキルアップ、クラウド化によるデータの一元管理一元処理、昔では考えられなかった24時間の顧客対応と物流システム、金融サービスをはじめとする、様々な新サービス網の構築に向けた、投資開発競争に巻き込まれる。既存の仕事は陳腐化し、低賃金化が余儀なくされる。しかしそこにしか、今後の中流クラスの社会生活を営むに足りる報酬を保障してくれる、新たな分野の仕事が生まれないとすれば、不断にスキルを磨き、そこにキャッチアップするための個人的な努力は致し方なしとして、ついていくしかないと多くのビジネスマンは諦めている。しかし、本来の目的である生産性の飛躍的向上には繋がらない、手段が目的化した本末転倒の表面的なスキルアップ・DXにとどまるケースも見受けられる。
4. 多様性の包摂
最後に、著者自身が育ったアメリカのミネソタ州の故郷の様々な人種コミュニティーが、相互に複雑に影響し溶け込んでいく様子と、多くの有意な青年を育てるのに果たした力と重要性の肯定、そしてメンターとしての母なる地球の自然の持つ、38億年に亘るレジリエンスの発揮と大いなる力に人類は学ぶべきだとするが、あまりにも広範囲な分野と課題に深く言及したために、日本語版で800ページを越える大著となってしまった。この世界を駆け巡る行動力と、各界の学識経験者トップとのネットワークを構築し、最先端の課題・問題に挑み、具体的な背景となる歴史と事実を掘り下げ、その根拠を示し展開する、様々な分野に及ぶ該博な知識と著述力は、さすが世界的なコラムニストだけのことはある。
5. 今こそ一旦立ち止まるとき
いくらスキルを高めても、歴史と哲学を含む幅広い教養を背景とするバックボーンと現実社会の深い理解がないと、現実社会に役に立つ有効な解決策(ソリューション)は見いだせないのが現実である。急がば回れでである。
コロナ禍において、ますます人は人から遠ざけられ、自然からも離れて暮らす生活に追いやられ、マネーの示す使用価値でなく商品価値に支配され、充分に休む間もなく、働き、情報に振り回され、疲れ果てて心身の不調を訴える人が増加する。この状況を逆転の発想で、そこで一旦立ち止まって考える絶好の機会と捉え、禍を転じて福と為し、静かに瞑想し、身の回りのことから、普段の自分の考えを整理・吟味・再認識し、次の行動への決断の準備期間とし、家族と多様なコミュニティーとの関わる時間を作り出し、日頃より積ん読状態にある本を読み、時には大いなる地球の大自然とそれを生み出した悠久の宇宙の歴史に学び、心身ともにリフレッシュする有意義な時間に替えたいものだ。