アフガニスタンで天とともに歩んだ人生―中村哲医師
中村哲医師は、遠くアフガニスタンの地で30年にわたり、日本からの善意の募金と多くの献身的な医療従事者に支えられ、紛争と混乱が続く現地で医療を受けられない多くの人々を前に、不退転の決意で医療活動を長年続けるとともに、砂漠に井戸を掘り、水路を作り、数年に一度の大洪水から河川の氾濫を防ぐ堤防を作り、砂漠地帯に命の水を届ける灌漑事業に生涯を捧げ、無念にも3年前の12月に武装集団の銃撃によって亡くなった。その中村哲医師の偉大な功績を称える追悼広場が2022年10月11日、東部のジャララバードに完成した。
天と共に在り
自らの手になる著作「天、共に在り」は、外国勢力を巻き込んだ長く続く民族紛争の中で、中村哲医師が現地の人々とともに、その困難に継ぐ困難の中、不毛の「砂漠の大地」を「緑の大地」に変えるという、気宇壮大な事業が中村哲医師の陣頭指揮のもとで実現していく奇跡の物語である。
本書は、長年アフガニスタンの現地の人々に溶け込み、アフガニスタンの辿った困難な歴史と、置かれた厳しい現状を理解するうえで、これ以上にない貴重な解説書であり、迫真のルポルタージュであり、その困難な過程が淡々と、しかし詳細に語られている。本の表題ともなった「天と共に在る」という確信は、「私たちが己の分限を知り、誠実であるかぎり、天の恵みと人のまごころは信頼に足る」という中村哲医師の言葉に、歩んだ人生の手応え・充実感と共に、去来するすべての様々な想いが集約されている。
“天”は古くから広く受け継がれてきたアジアの普遍的な思想であり、至る処に天の付いた言葉はあふれているが、その中核をなす思想と果たす役割は、現代社会においては説かれることは稀になってしまった感がある。人知を超越した存在で、宇宙の万物の道理を支配する知恵の集合体でもあり、自然そのもでもあり、大慈悲心であり、遥か彼方より、地球上のすべての生きとし生けるものを、見守っている絶対的な存在であり、苦難の人生を歩む人々を導く、心の拠り所でもあったと言えるだろう。
医療活動と灌漑事業の根本は同じ
中村哲医師はアフガニスタンのペシャワールにて、長くハンセン病に苦しむ患者を救う有志の募金活動による「ペシャワール会」という医療支援団体を日本にて立ち上げ、現地にて30年以上の医療活動に従事した。その中で庶民の暮らしを、根本から破壊する、地球温暖化がもたらす気候変動による干ばつにより、砂漠化する故郷を後にする多くの人々を目の当たりにする。激しい紛争が続く中で、熱砂のガンベリ砂漠の水利事業と河川の改修・農地の復元を目指し、故郷を離れた人々を呼び戻す、壮大な灌漑事業に取り組み、誰も成しえないような奇跡を、中村哲医師はアフガニスタンで起こした。
アジアのすべての矛盾と苦悩
その活動はアフガン紛争の最中で繰り広げられた。1979年のソ連による侵攻と内戦により大量の難民がパキスタンとイランに押し寄せた。そして米国の介入を呼び込み、ソ連、米国、イラン、アフガニスタン、各民族抵抗勢力のるつぼと化し、果てしないアフガン戦争は2001年から2021年まで続いた。その不幸な歴史は、かつての平和な緑の農業国を、徹底的に破壊し尽くし、筆舌に尽くしがたい極度に疲弊・荒廃した国にしてしまった。そこに地球温暖化の影響による大干ばつがアフガニスタンを何度も何年も襲った。
無念の死
その中村哲医師は2019年12月にアフガニスタンで銃撃により、こころざし道半ばで亡くなった。現在もウクライナ戦争が続く中で、どの国も自衛力の強化に取り組み、自国を守るためにはやむなしとの声に押され軍備拡張に一斉に走り、核兵器の使用も辞さないと脅す国もある。犠牲が犠牲を、報復が報復を呼び、戦争の非情の論理は人々を絶望に追いやり、市井の市民から命と財産を奪い、そして最後にはあらゆる人間性を奪うという、戦争のもたらす悲惨な現実を目の前に突きつける。
現代日本の生きた墨子
「日本の一番長い日」などを著し、長く文芸春秋の編集長を務めた半藤一利氏は、21年1月に亡くなった。中村哲医師との対談を収めたその著作「墨子 よみがえる」で半藤一利氏は、尊敬の念を込めて中村医師を「現代日本の墨子」であると伝えている。
墨子の生きた時代
紀元前の中国の春秋戦国時代の儒教家の墨子は、その生涯を非戦と平和の実現に捧げた。運命論、宿命論を退け、平和のために最後まで奮闘努力せよと叱咤激励し、中国各地を説いて回った稀有の思想家であるが、秦を武力により統一した始皇帝によりその功績を消し去られ、多くの歴史書からその著述が抹消され、軽んじられ、本来受けるべき正当な評価を受けていないという。
今こそ墨子の言葉が世界に必要
ウクライナ戦争が世界を巻き込み、各国が軍事力の拡大、軍備増強に走る今、昭和の歴史研究の第一人者であり、非戦を訴え続けた故半藤一利氏による著書「墨子 よみがえる」は今こそ読まれるべき本である。ありとあらゆる歴史的な事跡を例に挙げ、その該博な知識で、墨子の掲げた非戦の思想を畳みかけるよう説く半藤一利氏の姿と、はるか遠くの中央アジアのアフガニスタンで、壮大な灌漑事業を長年力強く指導し、非戦・平和の戦いを自ら実践し続けた中村哲医師の姿に、誰もが深い感銘を受ける。