能力主義と格差の拡大
能力主義(メリトクラシー)とは、則ち学歴主義であり、それは現状の大きな所得格差を固定化する役割を果たす、現代社会の支配的な考え方となっている。機会均等と社会の流動性を求める多くの人々の前に立ちはだかる大きな障壁となっている。
アメリカの著名な政治哲学者マイケル・サンデル氏による著書「実力も運のうち 能力主義は正義か」で、分断されたアメリカの政治経済の要因分析がなされているが、学歴に根差した能力主義が一つの大きな要因であると論じている。また「貧しき者は益々貧しく、富める者は益々富む」の現代版の経済構造を、巧みに覆い隠す役割と、「才能・能力と本人の努力さえあれば誰もが社会の上流に上っていける」という、アメリカンドリーム的な考え方を維持する上でも役立っている。現代のアメリカの政治経済社会において大きな影響力を持つ、有名私立大学出身者の親の所得は言うまでもなく、圧倒的に高所得層が占めている。4年間にかかる学費は余りにも高い。アメリカ連邦準備理事会FRBの発表によると、米国の2019年の家計所得中央値で大卒が96000ドル、高卒が46000ドルと、純資産もそれぞれ30万8000ドルと7万4000ドルと、無視できない違いが表れている。
マイケル・サンデル氏は、能力主義とは何を指すのか、その歴史的、宗教的背景を追いつつ、能力主義が広く浸透した資本主義社会と、そこに潜む看過できない機会均等と社会の流動性を阻む不平等の本質を鋭く指摘している。アメリカと欧州を比較すれば、むしろアメリカはヨーロッパ諸国より社会の流動性は低いにもかかわらず、国民の社会流動性に対する認識は、実際よりも肯定的な評価を与え、逆に欧州は実際よりも低く評価しており、社会階層の上下の分断と固定化がさらに進んでいると考えている。日本をはじめとするアジア地域の多くの国々でも、程度の差こそあれ、傾向は同じである。
アメリカの著名な社会学者であり、文明論、企業組織論、経営論で日本でも有名なP.E.ドラッカーは、半世紀以上も前となる1969年の著書「断絶の時代」において、既に「知識経済への移行」を説いている。知識人階層の支配を予想し、知識を支配する者が世界を支配すると示唆している。知識がすべての産業に必須の資本、費用、資源となったと言い、知識が労働と仕事、学ぶこと、教えること、知識自らの本質とその使い方を変えたと言っている。
1990年代後半から、今までのスピードを遥かに超える速度で加速したIT技術の革新により、更に過去と断絶された発展・変化を遂げた最先端技術(IT、AI、フィンテック等)を駆使する金融経済産業は、実物経済の背後からその影響力を行使し、資本力に物を言わせた知識労働者の囲い込みと圧倒的な投資により、独占的な過剰利潤をもたらすに至った(AMAZONは世界を一つのショッピングモールに変えてしまった)。その結果、業種・職業ごとの報酬・賃金は、IT技術産業に従事する者、金融経済業界に従事する者が、他の業種より明らかに高いという事実となって表れている。それは市場が求める付加価値の高い労働力という側面もあるが、明らかに他の業種・職種とは差が余りにも大きく、職業に貴賤なしという古くからの道徳律は報酬面においては形骸化している。
過去と断絶され、分断されたグローバリズム経済の浸透した現代において、能力主義は更に分断を深める作用を及ぼし、現代社会に生きる人々を、選別する役割を果たしている。不安で過酷な競争社会へと駆り立てられた人々の多くは、その競争から取り残され、その経済格差と遣り場のない鬱憤を内に溜める。現在の世界各地で顕著に現れている、ポピュリズムの一つの要因ともなっている。
教育を受ける権利が守られる人とそうでない人、親からの蓄積された財産を受け継ぐ人と、そうでない人の差は、能力主義が浸透し、是認された資本主義経済においては顕著な格差として表れる。
また、過去より様々な歴史的背景と政治要因により、親の代からの慣れ親しんだ故郷、居住地を離れ移住し、移民・難民として暮らす人々の数は、全世界でその比率は急激に増加傾向にあるが、厳しい環境に置かれて様々なハンディーを克服し、自らの持てる可能性を追求するチャンスは、幸運な一握りの人々を除き、様々な障壁の前で絞られてくる。
このような格差を助長する諸要因を克服するための、一個人の努力には限度があり、すべての結果責任を一個人が負うとなると、それは余りにも過重な負担といえるだろう。
これ以上の格差の拡大を抑え、社会の安定性を取り戻すためには、ある程度の経済成長と、大学教育を含めた教育の機会均等・親の所得水準による負担軽減策の実施、社会に出てからの再教育支援制度、全世代に対する現代社会が求める、基礎的なITスキルの普及訓練、若者に対する金融経済の仕組みに関する基礎教育などは、今後安定的な社会の形成に是非とも必要となる施策だろう。