起業とマズローの欲求5段階説
アメリカの心理学者マズローが1943年に発表した「人間の動機付けに関する理論」 の中で、人間の欲求を5段階に分け分析理論化したこの理論は、マーケティングなどの分野でも、人間の経済行動の動機を分析するうえで重要な観点と示唆を提供し、多くの場面で引用される。
簡単に言えば、その5段階とは、1「生理的欲求」、2「安全の欲求」、3「所属と愛の欲求」、4「承認の欲求」、5「自己実現の欲求」の5段階であり、1から5まで順次に段階を経て高次の欲求を満たすべく、人間の思考及び行動は変化・変遷・発展していくと言う理論であり、誰もが実感をもって納得しやすい理論である。
人の生理的欲求を満たすサービスは不滅
例えば、衣食住を満たす産業、農業、食品製造・加工業、飲食業、衣料製造、流通・販売業、住宅建築業、不動産業、及びそれらに付随する様々なサービス産業などだ
安全の欲求は社会のインフラ産業となる
例えば、医療・医薬品・介護・健康増進産業、介護サービス、社会保障制度、保険産業、年金制度、司法機関、警察組織、行政機関など
所属と愛の欲求は社会と個人生活の橋渡しをする精神的側面である
趣味のサークルから、様々な同好会、スポーツクラブ、ボランティア団体、宗教団体、自治会、政治団体、家族・婚姻制度、相続制度、学校教育制度、会社組織、経済団体、地方自治体、国をはじめとする様々な行政機関・機構、インターネットを介したネットワーク、SNSメディアなど、挙げれば際限はない。
承認欲求は個々の人生の満足度と大きく関係する
上記の集まり、集団、組織の中での同時代的承認欲求とともに、自分が最後の時を迎えようとするとき、誰に、どのように扱われ、何をもって、周囲の親しい人々に記憶されたいかという個人的願望など
自己実現の欲求は起業家の活動力の源泉である
すべての人が求めるものは、たとえ環境と周りの多くの人の助力があったにせよ、また巡り合わせも運もあっただろうが、自分の力で成し遂げた、自分だからできたと誇れるような存在の証しと(多くの人、知人友人と交わり、尊敬され、身近なひとに愛し愛され、様々な社会経験を積み、楽しい思い出を多く残したなど)、或いは業績(新たな製品・サービスを作り上げ有益な会社を立ち上げた、会社の発展に寄与した、専門分野で実力を評価された、発明・発見で世の役にたった、学問研究を発展させた、社会貢献した、ボランティア活動で人助けをした、税金を多く納めて社会の一員として貢献した、地球環境の保護に自分のできることで寄与したなど)を残したという実感であり、同時に自分自身も多くの先人の築き上げた人類の文明発展の基礎である科学技術成果と諸制度、洗練された歴史・文化・伝統を享受し、多くの体験と多くの本を通して学び、人間的に成長することができ、総体的に肯定的に評価できる人生を送れたという自己実現の満足感などであろう。
人と国によって、この5段階の優先順位は変化する。アメリカは比較的に自己実現欲求が高い、日本は安全欲求が強いなど、辿った歴史、培われた国民性、経済発展の状況、政治社会状況、一人当たりGDPなどの要因により、5段階の優先順位は変わるものの、社会性によって成り立つ人間にとって欠かすことのできない必須の要素である。。
職業は多くの様々な産業に分化し、細分化されているが、社会の一端を担って、個々の分野で起業するということは、この5つの欲求を実現させる過程でもあり、目的・到達点でもある。起業という人間活動には、このすべての要素が集約されている。これらの5つの欲求を満足させたいがために、人は起業する。
現代における企業活動はこのすべての要素を含んでおり、人間の持つ社会性というDNAに起因する5つの欲求が、社会及び経済を動かす原動力とも言えるだろう。
しかし、高度に発展した経済社会に、新たに参入・チャレンジするその障壁はますます高くなりつつある。フランスの経済学者のトマ・ピケティ氏がその著書「21世紀の資本」によって、改めて明らかにした、『資本収益率rが経済成長率gを常に上回るという「r>g」の不等式』は、言ってみれば、時間とともに資本の論理により、企業間と個々人間の経済格差は絶えず拡大するばかりであり、社会的不安定状態を作り出し、大きな弊害を生み出すこととなる。教育・労働の機会均等を保証し、社会的な不公平性を是正する、何らかの社会的経済的な格差是正措置が必要で、広がる格差を一定範囲にとどめるためには、累進税制が不可欠と主張する。
税金の制度設計思想が一国の将来を左右する。勤労者・労働者がマルクスの言う「労働力の再生産」(家庭を維持し、子供を作り、教育を受けさせる)に必要な収入を得られる機会、働く仕組み・制度、又はセーフティーネットを整備し、困窮度に応じて誰もが受けられる社会保障・福祉を維持しながらも、経済のダイナミズム、イノベーション、社会的な活力を保つには、大企業による寡占の排除、既得権益の壁の除去、起業を促す環境整備、法制度・税制、助成金の充実などの長期的な課題にも、粘り強く取り組む必要がある。
実際に、簡単に起業出来るような環境は多くの人の場合、期待できないのが現状であり、個人の起業のモチベーションをいかに高め、持続させるかが重要である。自分という資産の価値を最大限に高めるために、キャリア・ノウハウ、人脈、知識を蓄積する、本業以外の収入源を作る、資産を運用する、起業してオーナーとなるという道筋を、困難にめげずに一歩一歩努力して歩むことが求められる。
その資本と富の偏在により、未だ必要最低限の文化経済的恩恵に浴することがない、発展途上国の人々が世界には多く存在する。バングラデシュにおける貧困問題を解決するために、貧困層(その多くが家庭を持つ女性であった)を対象としたムハマド・ユヌス氏よって創設されたグラミン銀行が始めた小さな商売を始めるためのマイクロファイナンスによって、多くの人々を貧困から解放し、その運動は世界に広がって行った。その功績によりムハマド・ユヌス氏は2006年にノーベル平和賞を受賞した。
以前のような、投資活動による過剰利潤が期待できる国、地域、フロンティアは世界からなくなり、狭くなった世界はその資本と富の活発な活動により、徐々に低成長化、低収益化、低金利化していく傾向が顕著である。未だ解決を求める多くの困難な課題を抱える多くの国・地域にとって、また少子高齢化・人口減少・低成長の局面に立ち至った日本にとっても、起業する若者が増えるということは、世代交代を促し、新たな産業を生み、既存事業を引き継ぎ変化発展させ、新陳代謝を促進する重要なカギとなる。
小さな個人事業の取り組み・起業の実現を後押しすべく、各地の地方自治体も積極的に奨励・助成金制度を設けている。起業を支援する様々な県・国レベルでの財政・金融政策も多く実施され、すぐに利用可能な制度も数多い。
やはり、最後に必要なのは、人生経験、会社経験を長く積んだ周りの中高年世代が臆することなく、後進の育成に一肌脱ぎ、身の回りの身近な事例を紹介し、若者の関心を起業へと促すこと、勇気づけることである。明治時代に約500もの企業・事業を興し、「日本資本主義の父」とも称される、渋沢栄一の大河ドラマが放映されているが、地縁・血縁の壁を乗り越え、見込みがあり、やる気のある若者に思い切って事業をバトンタッチすることも大切だ。最初の一歩を踏み出すのに必要な助言、支援、指導を行い、たとえ一度は失敗しても、その失敗経験を活かし、再度チャレンジするよう、長い目で暖かく見守ることは、さらに必要なことだろう。